おーてぃんの備忘録

おーてぃん(@otelin_otoge)による残すかどうか微妙なものを残しておく場所です

私が高校から大学に入り博士取得するまで。

初めまして、またはお久しぶりです。

おーてぃんです。

 

なんとか1月の末に博士論文の本審査が通過し、

博士の学位を取得見込みとなりました。

 

折角なので、懺悔も兼ねて、またこうなるなという反面教師にしてほしく、自分を振り返ることにしました。

 

 

1. 高校入学から2年の夏まで

 

うどん県内一桁順位の進学校に入学…といえば聞こえが良いのですが、大都市圏に絡む都道府県ではなく、そもそも県内で8,9番目といった程度の公立高校に入学する事となりました。全国偏差値的には50代後半なところです。

 

この高校を選んだのには理由があります。

・中学校は県内トップ校といって差し支えないところだったが、あまりに勉強をしなさすぎた。

・中学校で先輩からいじめを受けていて、精神的に辛く勉強どころでもなかった。先輩はその悉くが県内トップ校へと進んでいった。

内申点に響く副教科(美術、家庭科など)の成績が悉く悪い。才能もなかったし、それを覆せる努力もしなかった。

・でも主教科はそこそこいける。

 

そういうわけで、内申点が重要でもなく、本番の点数が重要視され、また環境がガラッと変えられる高校に進学することとなりました。

 

この高校では、平均的には地元の国公立大への進学を目指す高校でした。ですので、皆基本的にはまず香川大学合格を目指す高校でした。

 

高校に入ってからは、私も例に漏れず「取り敢えず香川大学に行って迷惑かけっぱなしな私を育ててくれた両親に恩返しをしたい」と思っていました。

 

ただ、別に真面目に勉強するわけでもなく、ただ合唱部に入って、何なら変なモチベーションがあった私は生徒会に会計として立候補・当選し入っていました。

自分の学力への自信は無かったので、大学に入れるルートを増やしておこう的な考え方だったと思います。

 

でも、一応の進学校であるので、ベネッセの学習到達度テストみたいなのは受けさせられました。国語・数学・英語の3教科でした。わたしは適当に受けてた気がします。高校入学し部活もそうですが遊び呆けていた気がします。インターネットにハマっていました。ちょうどニコニコ動画が全盛だった時代です。また、ネットゲームにもゲーセンに行って音楽ゲームをするのにもかなりハマっていました。

 

そうして受けた学習到達度テストですが、国語と英語はA3(香川大とかならワンチャンありそう)でした。それに対して、数学だけはS2(東大京大と国立医学部以外なら結構いける)でした。あまりに、歪に、理系であることを指し示すとともに、「あれ?意外といける?」ということを認識していたような気がします。

 

その頃から、「勉強はあまり好きではない」けど「点数を取るための勉強なら出来なくはない」といった感じになっていました。

 

その後、「私は推薦を使う、使えるようなタイプではない」と悟り、定期考査は赤点取らなきゃいいとしてサボり、模試向けの勉強だけを行うこととなりました。自分で適当にムズめの問題集をやってた気がします。数学理科は楽しかったけど、それ以外は苦痛でした。

 

期末テストではクラスで平均くらいの成績でした。それに対して、学校で行う全国模試ではずっと学年1位ないし2位をとっていました。最初は香川大学を目指していた私は、模試ごとに岡山大学広島大学神戸大学と志望が上がっていき、それでもA判定が出続けていました。

 

先生達も「こいつには期待できそう」と思って頂いていたみたいで、無茶苦茶優しくして頂いていました。こうなるのは、県内トップ進学校に進学しなかったからでもありました。中学校の頃私よりもめちゃくちゃ成績が良かった私の同級生は、結構その県内トップ校で苦しんでいる感じでした。「彼らでも結構厳しいのだな」と感じていた次第です。

 

2年の春頃には、旧帝大を目指す事となりました。しかし、ここまで来て、かなり壁を感じていました。さすがに成績が伸び悩んできたのです。が、今考えると、これはあまりに贅沢な悩みだという事が言えます。はっきりいって生意気です。高校の授業レベルが低いと感じるようになってきました。でもそれは当然です。私が勝手に突っ走っていただけで、この高校は地元の国公立大を目指す大部分の生徒に本当に寄り添った良い教育をしてくれていました。本当に良い高校です。だからではないですが、先生方からは「退屈かもしれない。授業は聞いていて欲しいが、別にどんどん先に進んでくれて良い」と言われていました。

 

そうやって私は、親に頼み込んで、地元有数の塾に行かせてもらう事となりました。これが2年の夏頃です。

 

 

2. 塾に入ってから、大学入試まで

 

地元有数の塾に行った私は、入塾試験及びクラス分けテストを受けました。その塾のレベルは、「難関,応用上、応用下、基礎」という4段階に分かれていましたが、理系科目は難関クラス、文系科目は応用下から基礎クラスに配属となりました。担当の塾の先生から「こんなに特化してるのはなかなか居ないですね」と褒め言葉ともdisとも言える言葉をいただきました。

 

英語や国語などは応用下や基礎クラスで、センター試験(今でいう共通テスト)+αを行っていました、ただ、その塾自体のレベルが高く、そもそも県内トップ校の平均クラスはありましたし、同じ中学校だった方も結構いました。私が苦手としている部分から逃げないように、考え方や覚えるべき事柄を絞っていて、非常にわかりやすかったように感じました。

 

これに対して、数学などは難関クラスでした。そこにいたのは、中学校から「あまりに頭が良くて努力も重ねてて、この人達には絶対に敵わない」と思っていた、まさしく県内のトップ層でした。今思うと、十数人全員が旧帝大または国立医医に1浪以内に合格した、あまりにヤバ過ぎる軍団でした。中には、現在教育系YouTuberとして活躍されている方も居ました。彼は本当に優秀で、そりゃ東大受かるわと思っていました。

 

塾に入って最も良かったのは、無茶苦茶優秀だと思っていた方々との切磋琢磨が出来た事です。特に、幼馴染のI君とも再会したことは大きく、勉強をはじめ、時事や野球の事など色々なことを帰り道に話しながらお互いに励まし合っていました。

 

また、塾ではF先生やF先生、そして一番はM先生に出会えたことも無茶苦茶私の力となり糧となりました。説明は分かりやすく、そしてレベルも高く、相談にも乗ってくれて、とてもありがたかったです。

 

3年の春頃には、一応念のため京都大学も目指していましたが、やはりレベルの差は歴然で、特に英語と国語(なんで二次試験で国語いるの?)だけでかなり差をつけられた上、数学理科で差がつけられるわけでもなく、早々に諦めて第一志望を大阪大学工学部に決めました。実は東京工業大学の方が行きたかったのですが、ここは香川、両親をはじめ多くの人から「工業大学に行くなんてとんでもない、もったいない、気がぶれている」などの偏見を覆しきれませんでした。

 

合唱部や生徒会は幽霊部員と化してフェードアウトしていました。今でも同じ部活だった先生や同級生などには申し訳なく感じていますが、結果的に勉強時間の確保につながりました。

 

その後、なんとかB判定まで上げて大学受験。平均98点とかいうバケモンみたいなセンター国語を乗り切り、780/900で通過、二次試験も数学9割とかいう確変で、無事大阪大学に合格しました。両親が泣いて喜んでくれたのを覚えています。

 

3. 勉強し無さすぎた学部生(1〜3年)

 

念願の大阪大学には入学しましたが、当時大学は遊ぶものとの考えがいっぱいで、色々なサークルに入っていました。でも結局どれも中途半端、特に合唱の方は途中モチベーションが上がらず、先輩・同期・後輩に迷惑をかけっぱなしでした。今でも大変申し訳なく感じています。

 

徹夜でゲーム、アニメ、カラオケ、麻雀、TRPGなど、自分勝手なことばかりしていました。バイトした金を悉く趣味に突っ込み、一人暮らしも始まり完全に浮かれていました。

 

その結果、必修を13単位も落とすという落ちこぼれた成績を取りました。2年からキャンパスが変わるため再履修には「再履バス」と呼ばれる学内バスで往復1時間する必要があるのにも関わらずです。

 

流石にまずいと思った私は、2年からは真面目になり、2年間で1年生の時の負債を完全に返済しきり、なんとか単位を取り切った状態で研究室配属となりました。

 

4. 研究室配属、卒業論文研究、大学院入試、そして

 

研究室にはなんとか希望通り進めました。同期は5人いましたが、私よりも格段に成績も良く、そもそも頭がよかったです。先輩達も優しく、本当にお世話になりました。失敗も多かった私に対して本当に熱心に教えていただきました。

 

大学院には最初から進むつもりでした、というよりは3年生の頃から「もし行けるなら修士から博士へと進みたい」と思っていました。

まず、実験が好きでした。

次に、やればやるほど、自分の拙さが、認識できてしまい、このまま社会に出ても何も通用しないと思ったからです。

 

ただ、まぁ院試で落ちるんだろうなと思っていました。こんな優秀な同コース生のうえ、外部から挑戦してくる優秀な方々と渡り合える気がしなかったのです。

 

院試勉強はしていましたが、やればやるほど自信が持てなくなりました。そして、大阪大学の院試だけでは、落ちた時にそこから就職先を探してなんとかなる自信がありませんでした。

 

また、入った研究室での研究を行っていたうちに、もの自体ではなく、そのものの作り方に更なる興味を持つ事となりました。

 

そして、自分の興味に近い研究室を探したところ、京都大学東京工業大学、そして東京大学に、ここなら良さそうと思える研究室を見つけました。

 

この3大学のうち、院試日程がかぶっていた京都大学以外の2大学について、記念受験かつ滑り止めのような保険のようなイメージで院試を申し込みました。

 

当時の私は事前連絡もせず、いきなりここ志望ですといい出したような形となり、先生方を無茶苦茶戸惑わせていました。

 

院試の結果ですが、なんと3大学全てに合格していました。このうち、東工大は行くかどうかを9月時点で決める必要があったので、本当に申し訳ないと思いつつお断りしました。無茶苦茶贅沢です。

 

その後、卒業論文研究を何とか乗り切りました。当時はこれ以上頑張ることはなくてすみそうとか考えてましたが、今考えると浅はか過ぎますね…

 

結局、2月まで迷った末、どうせなら進んで倒れよう、後悔しようと考え、東京大学への進学を決断しました。大阪大学の研究室の先生方には、認めて励ましてくださり、感謝の限りです。

 

5. 楽しかった修士時代、リーディングプログラム採択

 

4月から東京大学の今の研究室に移り、与えられたテーマでの研究を行っていました。学部の時の皆でシェアしていた高度な装置と比較して、修士では装置を自分一人で保守して、実験して、結果を出さなければいけない状況となりました。

 

その装置を使っていた方が全員学位取得等でいなくなったのもあり、非常に苦労し、ここ直せばここが壊れるの連続でした。

 

同期はもう優秀を体現したような方で、先輩も後輩も出来る方々ばかりで、恐縮していました。

 

先生方は、厳しいですがしっかりと指導してくれる方々でした。レベルが非常に高く、いつも何かしらを得て少しずつでもレベルアップしていければと思っていました。

 

もともと博士志望だった私は、修士と博士が一貫したリーディングプログラムというのに、ダメ元で申し込みました。これは、様々な専攻の優秀な博士志望の研究者を集め、金銭的に支援するとともに様々なプログラムで次世代のリーダーを育てるものです。

 

このプログラムに選ばれると、学振のように給付型奨学金が貰えますが、博士に行かなければならないような形となります。

 

もう一度言いますが、次世代のリーダーを育てるプログラムです。外部から来たばかりの、結果も出していない私が受かるわけない…と思っていました。「これで駄目だったことが博士に行けないことを自分に納得させる要素になるわ」くらいに考えていました。

 

ただ結果的には…受かりました。私は修士1年の夏の時点で、博士進学が事実上確定してしまったのです。もう後に引けなくなった自業自得な私は、流石にここに来て覚悟を決めました。

 

修士研究はまぁ順調に進みましたが、今考えると馬鹿の一つ覚えのような研究、本質的じゃないところを重点的にやっていた的外れな研究だったとしか言えないです。よくそれで修論書けたな。

 

6. 博士課程(2020-2022) 後ろ向きな地獄編

 

修論も順調で、博士への院試も受かり、4月から頑張るぞい!と思っていた矢先、地獄が始まりました。そう、COVID-19の流行です。ほぼまる4ヶ月、大学どころか外にもあまり出れないような生活で、私は生まれてはじめて家で何もできない、しない生活を送っていました。

 

そして知ってしまったのです。何もしない事の幸福さを。これまでずっと動いていた私は、何もしないことってこんな楽なのか!と味を占めてしまいました。

 

また、家から動けず、運動もままならず、そうしていくうちに、年齢もあり、健康状況が著しく悪化しました。かなりの頻度で体調を崩すようになってしまったのです。

 

COVID-19による大学への入構制限が徐々に解除されてもなお、その味を忘れきれず、まだ修論研究が終わったばかりというのもあり、研究の進みが遅くなりました。重ねて、私の管理していた装置に、限界が近づいていました。何度も重大インシデントを起こし、その度に怒られ、怒られ、改善し、何とかなったのも束の間、実験中にまた軽く事故り…というのを続けていると、次第に実験に、装置に触る事自体に恐怖感を感じるようになってしまいました。

 

さらにここに来て、詳細は伝えませんが、私の近辺の人間関係トラブルが私にも伝わるようになり、それにも心を痛めていました。

 

そうしていくうちに、モチベーションが上がらない、だから結果が出ない、だからモチベーションが上がらない、とものすごい悪循環に陥りました。

 

それに拍車をかけたのが先生方の指導です。博士課程の学生として到底承服できない結果のでなさ、先生方も重要役職となり、無茶苦茶忙しくされていました。そうしていくうちに、指導は船頭多くして船山に登るようになり、指導中も台パン、ホワイトボーンパン、物床投げつけ、ものすごい剣幕で、しかも人格否定が入るようになり、全てが嫌になってきました。でも我慢して、博士課程なんだからこのくらいは耐えて頑張らないと、と何とか頑張ってきました。

 

しかし、2022年1月、ついに身体が言うことを聞かなくなりました。寝たきりのような生活が続き、何もする気が起きず、でもこのままではいけないと思い、相談すべき場所に相談した結果…鬱病だと診断されました。睡眠薬抗うつ剤を飲みながら、それでも何とか研究を続けようとしましたが、結局そのままで良くなることはありませんでした。

 

限界を感じた私は、カウンセラーの先生(本当にお世話になりました)の「一度地元に帰って、綺麗さっぱりリフレッシュした方が良い」というアドバイスを受け入れ、5月から8月までの約4ヶ月、地元に帰っていました。

 

完全にリフレッシュ出来たわけではありませんが、大分心も身体も動くようになり、9月から徐々に復帰しましたが、結局身体や精神がほとんど戻ったのは2023年になってからでした。ただ今考えると必要だったことだと確信しています。

 

7. 博士課程(2023-2024) 前向きな地獄編

 

遅れを取り戻すかのように頑張った2023年度、カウンセラーが中に入ってくれたこともあり、指導は厳しいながらも真っ当なものになり、実力不足を感じるものの理不尽ではなくなりました。

 

何とか7月に予備審査が通り、そこから5ヶ月はあっという間で、博士論文をなんとか書き切りはしました。そこから1ヶ月、毎日のように先生の指導を仰ぎ、実力不足と研究の内容と考慮の不足、そして勉強量自体が全然足りていないことを痛感する毎日で、年末年始返上しましたが、結局本審査時点では合格になりませんでした。

 

その後、再審査を月末に受けることになりました。まだ頑張らなくてはいけないのかと絶望しましたが、これは一発アウトでも文句言えなかったのに先生方がチャンスをくれたのだと思い、必死に毎日毎日死にものぐるいで頑張っていました。

 

そのおかげで再審査で合格、2024年3月に博士取得となりました。本当に長かったです。喜びよりは安心が勝ちました。

 

8. まとめ

 

結局、私は幸運にも博士課程まで進学し、博士取得となりました。これは全て、私の力であることはほとんどなく、まわりの方々に恵まれたからです。

 

ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。また、この場をお借りして、お世話になった全ての方に感謝します。

 

最後に私からのメッセージを2つだけ。

「相談できるうちに、相談しよう」

「耐えられなくなったら、とにかく逃げよう」

困っている方に届けば。

 

おーてぃん